4,Apr.04 (日) 01:06
たとえば法律は人間が生きる為にある。
法律を守る為に人間が存在するんじゃない。
時として現代人はこんな重要な民主主義の原則も簡単に忘れてしまう。

ところがこれを、神が定めた法が支配する時代に宣言したヤツがいる。
『安息日は人間のためにできたのであって、人間が安息日のためにできたのではない (marco 2-27)

そうイエスだ。

少し説明を加えると
元々旧約聖書では神は日曜日から金曜にかけて世界を創り、土曜日はその休みとした。
だから元来は一週間のうち土曜日が休み、つまり安息日(何故かこれが現代では一日ずれている)であり、この日には仕事をしてはいけない決まりになっていた。

ところがマルコ福音書によるとこの日、ハラのすいたイエスの弟子達が麦畑でその穂を摘みながら食べていたらしい。
つまり畑泥棒をしていたワケだが、当時はそれは問題ではなく、安息日に穂を摘むという労働をした事が問題とされたわけだ。
さてイエスの言った意味は『安息日だからって、ハラをすかせれば食べたいだろう』 そう、休めといわれて休むんじゃない。 休みたいから休むのだ。

キリスト教には色々といいたい文句がたくさんある。
でもそれはぬきにして、イエスって人間はおもしろい。
確かに残された福音書の中の言葉は奇妙に教条主義的に脚色/加筆されているようだが、なぜかそれすらも剥ぎ取ってしまう力強い意志を感じてしまう。

そうだよ、きみの前に広がってる世界は、きみが生きる為にあるんだよ。
きみが従うためじゃない。