8,Apr.04 (木) 01:55
ところで共感福音書(マルコ、マタイ、ルカ)には、それぞれにイエスが故郷ナザレでは受け入れられなかった逸話の中で、イエスには兄弟がいた事を報告している。(マルコ 3.31-35 マタイ 12.46-50 ルカ 8.19-21) 
例えばマルコでは「マリヤの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか(マルコ6.3)」と記述している。
また「使徒言行録」ではパウロがエルサレムで使徒と会議する、いわゆるエルサレム会議で、使徒側の中心人物をヤコブとしている。

ではキリスト教以外の資料ではどうかというと

フラウィウス・ヨセフスが「ユダヤ古代史(ローマ支配下のユダヤ)」の中で西暦60年頃に大祭司職になったアナノスがイエスの兄弟ヤコブを処刑したという事件を伝えている。
年代的にはヨセフスが実体験した時代であり、この記事の信憑性は高い。
つまりイエスの兄弟のヨセフスという人物が、イエス後のエルサレム教会を指導したというのは事実のようなのだ。

ところでナグハマディ文書の発見によりその実在が確認されたトマス福音書の書き出しには
「これは、生けるイエスが語り、デドモ・ユダ・トマスが書き記した言葉である」
とある。
ここで注目されるのはデドモとはギリシャ語で、トマスはセム語で、共に「双子」を意味する。 つまりデドモ・ユダ・トマスとはデドモ(あだ名)と呼ばれる双子(トマス)のユダ、という事になる。

実はこのデドモ・ユダ・トマスはヨハネ福音書にはラザロの復活(11.16) やイエス復活後に弟子達の反応として、いわゆる「トマスの反応」として登場する人物である。
そしてこのトマスと呼ばれるユダは、どうもマルコが列挙した「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン」のユダで、しかも一説にはイエスの双子の兄弟であったとも信じられていたらしい。

新約聖書の外伝である「トマス行伝」11から抜粋すると、

"王は新婦の介添たちに新婦の部屋から出て行くように命じた。(中略)ところが新郎は、ユダの姿をしたわれらの主が立って新婦と話しているのを見出したのである。 そこで、新郎は行った、「見よ、おまえは最初にここから出て行ったではないか。 どうしてまだここに居るのか」。 われらの主は彼に言った、 「わたしはユダではなく、ユダの兄弟である」。

つまりイエスはトマス・ユダと見間違えられる程にそっくりだったというのだ。
では双子のユダとは、イエスの双子の兄弟という意味か?・・・

さて、これはキリスト教の神話であるマリアの処女受胎説に異議を唱える。
キリスト教会はマリアの処女性を強調するために、上記のヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンはヨセフ(マリアの夫)の前妻の子であるとしている。
しかしユダがもしイエスと瓜二つだとすると、イエスとユダはよっぽどヨセフ似であったか、それとも最低でもユダはマリアが生んだ子であったと判断せざるをえない。

またマルコは「マリヤの息子」と記述しているが、当時のユダヤは男性中心の世界でありルカのように「ヨセフの息子」と記述していないのはおかしい。
これではイエスはマリヤの不義の子のような言い方になってしまうのだ。

さてさて人間とは自分の信じるものを美化したがるものだが
その法則に従うならマリアの処女受胎説よりは、イエスはマリアの不義の子で、しかも双子のユダという兄弟がいたという説のほうが真実に近いかもしれない。
しかしだからといってイエスという人物の価値が減るとは思えないのだが
・・・しかし体制宗教とはそうはいかないものなのだろうか・・・