26,Apr.04 (月) 09:41
社会とは時に、自分とは違う他者を嫌い、時にはその嫌悪感が原因である事にも気付かずに相手を排斥する。
それは新しい事じゃない、昔から幾度も繰り返されてきた。
そして今もその悪癖を克服できないでいる。

時にはその背景には自分への罪の意識があり、その無意識の弁明から相手を排斥してしまう。
相手の欠点を揶揄し、みずからを擁護するのだが・・・
それは自分の罪を拭う事ではなく、隠すだけだ。
そしてそれは無意識であるが故に人々のこころを蝕み、より先鋭化させてしまう。

イエスが『愛すべき隣人』とは誰かと問われた時に
サマリア人の譬えで答えたのは
まさにその点にあるだろう。

盗賊により半殺しにされた旅人を
最初に通りかかった祭司はこれから行う神事を汚す事を怖れて通り過ぎ
同様にレビ人も死の汚れに触れる事を怖れて通り過ぎ
結局被害者を助けたのは
ユダヤ人が一番忌み嫌っていたサマリア人であった。

これを現代の出来事に置き換えると・・・

自国民が戦場で敵に拉致されたとの知らせを聞いた首相は
それが自分の政治生命に係わる事件になる事を恐れ
そして官房長官はナゼそんな危険な場所へ行ったのかと文句をたれて
結局彼らを助けたのは敵方の宗教指導者だった。

さて愛すべき隣人とは誰か・・・