3,May.04 (月) 00:58
"イエスが言った、「もし肉が霊の故に生じたのであれば、それは一つの奇跡であるが、しかし、もし霊が身体の故に生じたのであれば、それは奇跡中の奇跡である。 しかしそれでも私は、いかにしてこの大いなる富がこの貧困の中に住むに至ったかに驚嘆している」。"
(トマスによる福音書−29『Q資料・トマス福音書』新免貢訳より)
さて、もし霊が存在するとして・・・
それが身体を持たない状態で存在する時とは、一体どの様に世界を把握するものなのだろう。
ローラーコースターに乗った自分を想像してみるといい。
歯をくいしばっているのは君の身体だが、それを強要しているのはこころだ。
こいつはどうも、その入れ物に左右されやすいらしい。
それを失くしても、はたしてわたしの霊は自分を保っていられるだろうか。

わたしはここに生きている。
もしそれを終える時が来たならば、きっとわたしは霧散する。
または少しの足跡を残せるかもしれないが・・・
それとていつかは風に拭い去られるだろう。
わたしとは時間的には、そのようにはかないモノだ・・・

しかしそれでも今、わたしはここに生きている。
悪いが未だしばらくは、このエネルギーの集中体を解放する気はないね。
それはわたしが移動する空間を常に占領し、他者を押しのける。
わたしとは空間的には、そのように厚かましい存在だ・・・

だがしかし、こんな儚くも厚かましい存在が、今ここに存在し、しかもそれがわたしだとは・・・
確かにこれは、ナニゆえに生じたんだとしても、まったくとんでもない奇跡だぜ。
知らんぷりしてちゃダメだよ。
これはキミのことでもあるんだから・・・

3,May.04 (月) 19:41
きみはその生命ある時間を存分に使え。
つまらないモノなど存在しない。
つまらないのはきみのその見栄だ。

時間はいくらでも短く、または永くもなる。
生きている濃度の問題でしかない。
しかもその比較などなんの意味もない。

どんなに偉大な人間でも
地球ひとつ創れないが・・・
どんなにささいな人間でも
隣人のこころを潤わせることができる。

どちらが素晴らしいことかって?
そんな尺度を持てるヤツはいない。