5,May.04 (水) 10:26
義務の愛に本物の愛はない。
愛する責任とは結婚式の時に神父が述べる脅しである。
パウロのそしてキリスト教会の主張は、出来れば結婚しない方がいいが、情愛におぼれるよりはいいと、つまり神の名において結婚を許してやるのだから、もう一生その相手以外に情愛を向けるなというものだ。
通常これが脅しであるのに気付くのは結婚後数年してからだ。
ちなみにイギリス国教会がローマ教会から離脱した理由は、当時の国王が離婚したかったから、という笑えない歴史がある。
愛とは本質的に制度化とは無縁のものだが、なのに権力者はそれを義務化したがるものなのだ。
なぜならば愛の義務化により権威を独占できるからである。
ローマ教会がいい例ではないか。
神への愛の独占により中世ヨーロッパを支配し続けた。
それを打ち破ったのがハレンチなイギリス国王だというのも実に興味深い。
結局カソリックの妄想を拭い去るには、ソレ相応の実力が必要であったわけだ。

さて今われわれは愛する自由を持っているのだろうか。
いや愛せない時は無理に愛さなくてもいい自由はあるだろうか。
仕事につけばその仕事を愛さなくてはいけなくて、結婚すればその相手を愛さなくてはいけなくて、平和な生活をおくれているが故にこの国を愛さなくてはいけなくて・・・
でもね強要される愛は時に精神に対する拷問ですらあるんだよ。

どう思う?愛国者の皆さん・・・