8,Nov.04 (月) 00:07
あえて再度、田川建三氏の<キリスト教思想への招待>より抜粋
桁違いに巨大、強力な世界帝国の軍隊、世界に並ぶものなく、その軍事力を背景に、好き勝手なことを世界でやらかしている軍隊。 それが、いきなり自分たちの上に侵略してきて、頭の上から爆弾を雨あられと降らす。 自分の子どもも、家族の誰かれも、みんな殺されてしまった。 知人友人で死んだ者も多い。 この悲しみを、この憤りを、どこにぶつけたらいいのだ。 どんなに憤っても、どんなに悲しんでも、死んだ者が慰められることはありえない。 しかも、これだけの殺戮をやった連中は、まるで何事もなかったかのように、ますます経済的に繁栄し、のうのうと贅沢を楽しんで生きている。 それどころか、我々を大勢殺しておいて、いいことをやってやった、などとうそぶいている。 このまま終わってもいいのだろうか。 いや、このまま終わらせるわけにはいかない。

 侵略する軍隊の方は、一人死んでも、その名前がれいれいしく飾られ、死んだ人間の数が正確に数えられる。 それに対し、その何千倍、何万倍も殺された人々の側は、殺された人数さえも正確に把握されることはない。 だが、死んだ者の人数はそれにつきない。 直接上からの爆弾で殺された者だけが死んだのではない。 その瞬間には何とか生きのびた者も、重い傷を負えば、以後生きていくのは大変である。 爆撃の、数ヵ月、数年後に、ついに死にいたる。 あるいは、自分は幸いにして何の怪我も負わなかったとしても、生活を支えてくれた父親や近親者が死んで、生活費もままならず、だんだん病弱となって死んでいく者もいる。 あるいは、そういう悲劇にはならずとも、幸い家族みんな生き残っても、生活の手段を破壊しつくされて、食えなくなる者の数は多い。 侵略の犠牲となって死ぬ人は、その時直接殺される者だけではない。 それよりもはるかに多い人々が、生命を失っていく。 その人たちは、戦争犠牲者の統計の数には入れられない。 統計の数にさえ入れてもらえない仕方で、侵略の犠牲者として生命を失ってしまう。 あるいは、失わないまでも、生涯、苦境の中で耐えながら生きていかなければならない。

 このままでいいのだろうか。 人間は復讐してはならない、という。 復讐は神がやって下さる、と。 しかしそれなら、「聖なる、真なる神よ、あなたはいつまで裁かずにいるのですか。 流された我々の血の報復をなさらないのですか」(ヨハネ黙示録六・10)

 黙示録の著者は、終末の話を書こうと思った。 多分、終末の審判の時に、その裁きが行われるという話を。 しかし、此の世が終末を迎えるとしても、その時まで、我々の血を、我々以外の、世界中あらゆるところで、昔から、多くの、数え切れない人々の血を、流し続けてきたあの連中が、のうのうと、いい気になって生きているままに、無事に「幸せに」天命をまっとうするがままに、まかせておいて、そのずっと先の、此の世のことではない彼岸のお話として、「審判」が行われたとて、それがどうというのだろう。 終末が来る前に、まだ此の世が、我々ともかく生き残った者が生きている間に、此の世の中で、あの連中が、あんたら本当に悪いんだよ、と悟るような仕方で、どうして裁かれないのだろうか。

 黙示録の著者は、こうして、いったん書きはじめた黙示録の本を、なかなか書き終えることができなかった。

ハハハ・・・もしも「人類は前進している」のなら、この答えは出ない方がいい。 それは「終末」にたどり着いた時でしかないのだし・・・しかしそれでも、ナゼ僕らはこんなにも・・・自分の手を血で汚さなければいけないのか・・・