25,Mar.06 (土) 00:11
パウロって一体何者なんだ・・・
新約聖書の福音書の主役はイエスだが、その他の文書にはもう一人の主役が居る。 それがパウロだ。
ルカの福音書の続編とされる使徒行伝で、彼が最初に登場するのは7章の終わり(ステファノの殉教)からで、9章であの有名なダマスコス近辺での回心が語られ、途中ペテロの失踪のエピソードをはさんで13章以降、最後の28章までの殆どが彼のエピソードで占められている。 これではまるで前半は後のパウロの業績を記述する為のプロローグのようですらある。
また使徒行伝以外のその他の文書のうち「???の手紙」と名付けられた文書が21もあるが、このうち使徒の名前の付いた文書は7つで、それ以外の文書の殆どは(偽書も含め)彼の手紙とされている。 勿論その半数はパウロではなく、彼の名前を騙ったとされる文書だが・・・では何故イエスの存命中の使徒であるヤコブやペテロまたはヨハネではなくパウロなのか・・・
なおも、ではそれらの新約聖書のほぼ半分を占める文書において語られているパウロの(またはパウロ的な)思想は、福音書から垣間見れるイエスの姿勢と一致、またはそれを補完するものだろうか? どうもそうではない。 イエスは常に社会的弱者にこそ救済があると説いた。 狭き門とはエリートの為の門ではなくハンセン(ライ)病患者が忍んで神殿に入る為の門である。 つまりイエスはそこから入って社会を観ろと説いた。 ではパウロは?
ヨハネの福音書にある姦通の女のエピソードは(マリアの処女受胎などといった神話を信じなければ)イエスの人間的背景が感じられる。 イエスは「それでは罪犯した事のないものから彼女に石を投げつけるがいい」と宣言する。 誰もそんな自信はない。 ひとり、またひとりと立ち去り、最後に残されたイエスもまた彼女を断罪することができない。 ただ二度と同じ罪を犯すなと諭すだけだ。 ではパウロは?
パウロとは良くも悪くも信念に従い、その信念に突き進んだ人間に思える。 もしダマスコスで日射病にやられて幻覚を見なければ一生ユダヤ神殿の祭祀の為にキリスト教徒を迫害し続けたに違いない。 またその回心の後にローマ世界の隅々まで布教に努めた彼の信念の中心議題は『贖罪』だ。 つまり彼は自分が処刑したキリスト教徒への罪すらも、イエスの磔刑とその復活により贖われたかのように振舞っていたにすぎないのではないのか・・・
再度言うけど、わたしはイエスが好きだ。 でもキリスト教ってどうも好きになれない。 昔「わたしはどんな悩みでもわかる」と言った宣教師に会った事がある。 本当かい? 今ならこう反論しただろう。 「きみは聖書は全て読破して理解した気でいるだろうけど、本当の人間を観た事がないんじゃないのかい」 そしてそいつがパウロとダブってしまうのだ・・・
がしかしパウロって一体何者なんだ・・・