21,May.06 (日) 23:51
「イエスの血統がいまだに続いている」 もしこれがフィクション(作り話)ではないとすれば、それは相当なスキャンダルではあるけれど・・・それでもより重要な要素から眼をそらすだけだとしたら・・・それはそれでまた問題だね・・・今日ふと映画『ダ・ヴィンチ・コード』を観ながらそんな事を考えた。
15世紀にグーテンベルクが活版印刷でラテン語の聖書を一般に公開し、マルティン・ルターがそれをドイツ語に翻訳するまで、ヨーロッパ人は自分達の聖書にナニが書かれているかなど殆ど知らなかった。 もしあなた(または家)が仏教徒で、時々お坊さんが眠い梵語(インド語)のお経を唱えて帰っていくなんて体験をした事があるなら想像できるだろう。 それまでは日曜日に教会に行けば神父がラテン語で話しその後に説教が始まるのだが、そのラテン語の部分など誰も(もしかすれば神父自信も)殆ど理解していなかったに違いない。 証拠のひとつは免罪符だ。 聖書のどこに罪を金で贖う事が出来ると書いてあるだろう。 万人に為の教会に尽くすならそれも有益という論理では、戦後の日本の憲法以上に拡大解釈だ。
ではそんなローマ教会から人々を解放したプロテスタントが正しかったのか? だが彼らがよりどころとしたのはイエスではなく教会が正典とした聖書だ。 政治的には理解できる。 なにしろ異端となれば即火あぶり、ローマ法皇に破門されれば国王だって地位を失う時代。 それに立ち向かうには相当な権威が必要だ。 それを正統ローマ(カソリック)教会が正典と認めた聖書に求めるのは当然の成り行きだろう。 しかしこれは文書でしかない。 しかもお互いに矛盾しあったままの・・・
誰もが納得できる事を深く追求しようってヤツは滅多にいない。 しかしどうも納得できないが、しかしそれは正しいという前提で考えなきゃいけないとすると、物事は急に複雑化する。 西欧人が東洋人より理屈っぽいのは、この矛盾だらけの聖書を正典とし、生きる為の『義』の根拠としたからかもしれない。 しかしたとえもし神がこれを書いたとしても、これは人間が使う『言葉』で書かれた書物だ。 矛盾しないワケがない。
今、死海文書やナグハマディ文書、ユダ福音書などが発見され、キリスト教会の成立時期の事情が明らかにされつつある。 キリスト教を欺瞞とするのは簡単だ。 なお罪よりは功の方が多い。 しかしだからといって、今時ヨーロッパ中をイエスの家系を探し回って新たな教祖に祭り上げるのか? 新たな権威を創りだして、それを今/過去の権威と取り替えようというのか? 真のイスラエル、真に神に救われる民の王。 しかしそれがイエスの本質なのか?
そうだよ、これはじゃスキャンダルとして、結局キリスト教成立時の問題を指摘しようとする者への障害としかならないんじゃないのか・・・なんて事を考えながら・・・