大正から昭和初期にかけて自らを日本で最初のダダイストと称する
辻潤 という人物が居た。

実際にダダという言葉が1910年頃に起きた思想/運動とすれば、
彼はまさにそれを最初に日本に紹介し
(彼なりに)実践した人物であるに違いない。

しかしわたしが彼の名前をしったのは
大杉榮と共に甘粕大尉により虐殺された伊藤野枝の元夫という次第で
しかも1944年つまり終戦の前年11月24日に上落合のアパートで餓死する
という悲惨ではあるが、ちょっと情けない最後を迎えた人物ではあった、というものだ。

しかし、だからといって彼の思想がまったく無意味であるとは思えない。
いやそれ以上に現代にこそ再評価されるべき人物だとも思う。

彼の“「自由」という言葉”というテキストを掲載してみよう。
(小文字の文章はわたしの稚解説)


 言葉というものはいうまでもなく人間が便宜のために勝手気ままに考え出したものだ。 人間が言葉より先か? 言葉が人間より先か? 今さら改めて考える必要もなかろう。  ここでの議論は元キリスト教徒であった辻にとって、その影響であると同時にその反発と考えるのは深読みに過ぎるか? とにかく旧約聖書の「創世記」では最初に神が「光あれ。」と言ったことから世界が創られ、また新約聖書のヨハネ福音書では、より明確に「はじめに、ことばがいた」と記されている。 しかし少しマトモに考えれば、辻のように人間が言葉を作り出したと考えるのが妥当だ。
 ところが宗教を絶対と考える人々
(または当時の天皇教、国家皇道主義)のように、他に権威をゆだねる人たちにはこれがわからない。 いや理解しようともしない。 なぜなら「権威」の実態とは(辻の述べるように)その言葉に支配された「不思議な現象」であるからだ。
 ところが人間が初めて言葉を発明してから多くの年月を経るに従って、その言葉が色々複雑になり錯綜して、その初めて用いられた意味とはまったく異なった意味に用いられたり、それを用いる時代やそれを用いる個人や、またそれを使う場合によって一つの言葉が色々とちがった意味で使われる。
 そして初めは意識して使われた言葉が、段々と無意識に全然習慣としてなんということなしに用いられるようなことになってくる。 そして遂に人間は、自分の発明した言葉にアベコベに支配されるというような不思議な現象をさえ生じてくるのである。 言葉は生物だといった人があるが、まったくそうなると生物だと考える方が至当かも知れない。

 私は今ここではその一例として「自由」という言葉について考えてみたいと思う。 この言葉も今では万人がまったく「自由」に平気で使っているが、恐らくその言葉を口にする人は必ず千差万別の意味で用いているにちがいない。  確かに「自由」という言葉は厄介だ。 英語では FREE と LIBERTY の2つの言葉があり、いかにも違う概念の様に説明する人が居るが、実は語源が英語 (FREE)ラテン語 (LIBERTY)という違いがあるだけで、ラテン語の方がいかにも文化的という幻想でしかない。(LIBERTY には「社会的責任を前提にした」というニュアンスがある、などという主張はラテン語の優越を前提とした強弁だ)
 また日本語の「自由」という言葉は(いつから使われだしたのか知らないが)板垣退助の「・・死すとも自由は死なず」(という風説としての言葉)からも、明治時代には存在した。 そして現代の辞書には「他から制限や束縛を受けず、自分の意志・感情に従って行動する(出来る)こと。」と記述されている。
 「自分は自由でありたい」という人がここに一人あるとする。 その時その人は何らかの束縛を感じているにちがいない。 まず簡単に定義を下して「自由」を「束縛のない状態」「拘束のない状態」といったならば一番わかりやすいと思う。
 しかし「絶対の自由」(そんなものは決して存在してはいないが)という状態を仮定しない限り、およそこの世の中で「束縛のない」もしくは「拘束」のない状態などというものは存在しようがないと思う。
 しかし当時、また今とても「自由」という言葉自体に酔いしれているだけで、それがナニかを考えるひとは少ない。 そこで「自由の為の戦争」などといった馬鹿げた逆転(辻の言うところの言葉に支配された不思議な現象)が起こるワケだ。 ちなみにここで辻が定義するように「自由」とは厳密には「行為」ではなく「状態」を現す言葉である。
 しかし、時々人間はでたらめな言葉使いをして「吾人は絶対の自由を要求する」などとトテツもないことをいい出す。 勿論人間はどんなことを如何なる場合にいおうとそれは自由だけど、もしそんなものが要求しさえすれば本当に獲得出来ると思うならばそれは阿呆か狂人である。  前節の「自由」=「束縛/拘束のない状態」という定義に従えば「絶対の自由」=「全く束縛/拘束が無い状態」となる。 しかし確かに「皆が自分勝手に生きる事ができる社会/環境」とは絵空事でしかない。。
 たとえば満員電車で誰かが座席を得る「自由」を要求すれば、誰かが座席を失うという「束縛」を受ける事になる
 しかし、その「絶対の自由」という言葉は自由の最大限を形容して誇張して述べた詩的な言葉であると見れば、それは首肯出来るのである。  「詩的」とは実に言いえて妙である。 だから「我慢」するのではなく、だからこそ「要求」せざるを得ないのが「自由」だ。

 今人間の要求する自由というものの範囲を考えてみれば、およそ「自由」というものの領域が明瞭になって来ると思う。  「人間が平等はある」とは幻想だが、チャンスには平等であるべきだと思う。 いや、そうあった方が多分フェアってもんだ。 同様に「博愛」も「自由」すらも、それが前提では「滅茶」になってしまう。 目的の為に整えるべき状況(自由な状態)を目的にしてしまっては最初の目的がすりかえられてしまったも同然ではないか。
 「自由という言葉を客観的に考えてみるとはなはだ漠然たるもので、かの仏蘭西革命以来ははなはだ景気よく用いられる「自由」「平等」「博愛」といえば誰でもスグとあれかというように解った顔をするが、全体それがなんの自由だか、なんの平等だか、どんな博愛だかを深く訊ねて考える人は極めて少ないようである。
考えるどころではない。 まるでそれが三種類の酒ででもあるかのようにそれに酔っ払っていた人もあったらしい。 さらに御丁寧にそれらの言葉に「一切」という形容詞までつけたがるのである。 そうなるとまったく一切が滅茶になる。
 自分は今「自由」を全然主観的な立場からみてその領域を各個人の欲望に比例するものであるとみなしたい。 欲望が強ければ強い程、その種類が多様であればある程、その人は色々な自由を要求する。 従って「拘束」をより激しく感ずることになるのである。  逆に「自由なんていらない」と主張する人々が居る。 いや実は世の中の大多数はそっち側だ。 そしてその情況は辻が生きた時代から少しも変わっちゃ居ない。 いや変わりようがない。 なぜなら自由でいるとは自分で自分を支配する事であり、それはそれで結構骨の折れる仕事なのだ。 そこで「それならわたしがその肩代わりをしてあげましょう」という、つまり今で言う政治家、昔なら支配者という人たちが発生する。 ところがこの連中は大抵は傲慢だ。 「きみらの幸福は自分のおかげ」と信じてしまう。 なので余計な事は考えるなというワケだ。 そして困った事には最初に我々はそれを彼らに移譲、つまり放棄してしまっている。
 この雑誌に冠せられた「自由人」という言葉の意味はどういう内容をもっているか私はまだハッキリ知らないが、自分だけでは「自由に物を考え、自由に行為する人」というような意味に解釈している。
 しかし現在の社会状態では物事を自由に考えることは出来てもそれを自由に発表したり、自由に行為に移すことは許されていない。 従って今の世の中では自由人であればあるだけ周囲の拘束をより多く感ずることになるのである。 であるから「自由」はまた一方から見て「自由を要求する人」である。 即ち色々な拘束を感じているのでそれからなるべくおたがいに早く脱却したいと望む人々である。
 そしてそういう拘束を痛切に感じて今の世の中が如何に自由人にとって不自由であるかということを大胆に発表するからには、みな欲望がそれ相当に強い人々であるにちがいない。  さて議論は「自由」を状態と捉えるばかりではなく、その欲求の原因を探る部分に展開する。

 しかし等しく自由といっても、人間の現在の状態では如何にそれを望んでも遂に得ることが出来ないものである。 自然の法則から受ける拘束の如きは到底それを如何ともすることは出来ないのである。  辻はここで「自由」とは「個人的」な状態という前提で話を始めているのだろう。 確かにそれを望み、その能力があって初めてそれが出来る。  とすれば、自由になるにはそれなりの努力をしなきゃいけない。
 ところが人間はえてして(「自由」と「平等」を混同して)アイツが「自由」ならオレも「自由」であるべきだなぞと考える。 しかも大抵は「オレにも与えろ」というばかりで、その為に費やすべき何某かの努力を無視してしまう。
 鳥の如く飛ぶ自由、魚の如く遊ぐ自由、雲の如く走る自由・・・かくの如き自由は如何に望むも到底与えられることは出来ないのである。
 故にそれは各人の欲望の程度と能力の範囲においてさだめられなければならなくなる。
 「自由」というものが自己以外に存在し、また自己以外のものから与えられると考えている人は空想家、ではなければ、「自由」という言葉のイリュウジョンに酔う人である。  歩き出しもしないで、オレを前に進めろと要求したって誰が手を貸すだろうか。 現実は厳しい。 それで前にも進めず、ただ「オレは自由じゃない」と不満をもらすだけではないか。 それでは「イリュウジョンに酔」っているだけ、なるほど手厳しい指摘だ。

 だがでは本当に「自由」とは「個人的」な状態以外にはありえないのだろうか? 「社会的」な状態としての「自由」はありえないのか? いや「社会的自由」とは?
 辻の生きた時代、すなわち明治後期から大正、昭和初期にかけて日本は日清、日露戦争、そして第一次、二次の世界大戦を駆け抜ける。 しかも負けたのは最後だけで、辻がすでに下落合のアパートで餓死した後である。 つまり日本は「イケイケドンドン」とばかりに軍国主義に転げ落ちていた。
 しかし同時に平塚らいてうの「青鞜」に代表される「新しい女」を生み出し、また大杉榮のアナキズム運動が公然と繰り広げられた時代でもある。 辻の思想は(この決して無縁ではない人々に対して)余りにも反しているのではないか?
 いや、だからこそ彼らの限界、つまり自由たらんとする人々と、ただそれを安穏と眺めているだけの大衆との落差に、またそれでも為たらんとする「イズム」に、「それじゃイリュージョンだ」と毒つかなくてはいられなかったのではないか。

 「自由」は各個人の中にある。 ただそれを拘束する周囲の事情を改める時それが獲得されるのである。
 自分の歩いて行く道に岩石が横たわっている。 自分はそれを迂回するか、それを取り除くか、それを打ち砕くかしなければ先へ進む事は出来ない。 それを迂回する知恵もなく取り除く方法も知らず、あるいは打ち砕く力もない者はそこに立ち止まるか逆戻りをするかいずれかである。
 またそうしてまでも前進する必要がないと思う者はたちまちあきらめて逆行するのである。
 ただ邁進せんとする欲望の猛烈なる人のみそれを取り除き、あるいは打ち砕く知恵と力を発見するであろう。 そしてその場合、自由はどこにあるか?
 彼の知恵もしくは力の中にその表現の芽を有していると考える他どこにも自由は存在しないのである。
 徒に「自由」の要求をわめき叫ぶ人々は、いつまでも自由は与えられない。 ただそれを獲得する知恵と力とを有する人々にのみそれが与えられる。
 「自由」「正義」「真理」「善」・・・すべてこれらの言葉は人間が便宜のために発明した言葉であり、符牒であるに違いない。 それらには何ら永遠性のある一定不変の内容はないのである。
 しかしこれらの言葉は如何に今まで多数の人々を誤らしめたか? 如何に多くの愚人が、自己の製造した言葉のイリュウジョンに誑かされて愚かな犠牲となったか? 思えば悲惨なる滑稽事である。
 あらゆる「幻影」を自由に獲得し、消散し、駆使することの出来る人こそ真の自由人である。  では辻はどの様な人間が「自由」であると主張するのか。
 残念ながらこの段になると俄然仏法じみてくる。 右文の「イリュウジョン」を「色」に置き換えればまるで「色即是空」ではないか。 それとも自己に「幻滅」することか? とにかく辻はそれをあくまで自己の内部に求めようとする。 社会に対しては、まるで唯の敗北主義である。 らいてうの「考えの足りない一種の理想家」という非難の所以もそんなところにあるのだろう。
 人間が色々なイリュウジョンに囚われている間、その人は決して自由ではあり得ない。
 人は自由であり得るためには、一度一切の物に対して幻滅を感じなければならない。 幻滅を自覚して後に初めて人は真に「幻影」を享楽し得るのである。
 かれらの奴隷となることなく自主としてかれらを自由に獲得し費消することが出来るのである。
 自己以外の一切(自己の肉体すら)はただ自己を享楽するために存在する道具であり手段であるに過ぎない。  しかしまた「自己以外」は全て「享楽の為の道具」と宣言しながらも、そんな「自己」も「他の存在の享楽」の為の道具である事を自覚しろと言う。 比喩として言い方を変えれば「男性器は男性が性感を享受するための道具だが、同時に女性器を通して女性が快感を享受する為の道具でもある」とでも言おうか。 また「金の価値」うんぬんは、資本家が嫌なら金を使うな、偉いヤツが嫌いならペコペコするな、という皮肉とも読める。 とにかく全く外に無関心というワケでもない。

 つまり辻は「自己の生命の欲望」つまり真に自分の欲する事に忠実であれと言っているのではないだろうか。 そしてそうではないことに「無自覚」でありながら他人の為と思い込む人々、また彼らが「自由」と騒ぐことへの非難でもあるだろう。

 同時に自己はまだ他の存在の享楽に対する一個の道具であり手段であることを忘れてはならない。
 金の価値を認むる者は資本家を造る者である。 法律の価値を認むる者は国家を造る者である。 爵位の価値を認むる者は階級を造る者である。
 刻々と流れ動く自己の生命の欲望をつぶさに意識してそれに従って生き行く人のみ真に自己の生活を生活する人である。
 自己の意識せる欲望に従って他人の生活のために生活することは時に許される。
 しかしながら多くの人々は、全然無自覚に他の人々の生活を生活することを自らの生活であると心得ている。 かくの如き人々はまったく自己を有せざる人々である。

 閉話休題だが・・・先日新聞のコラムで “どうも日本人は自由という言葉をいろんな場面で柔軟に使う傾向があるようです。「小冊紙をご自由にお取りください」「行くか行かないかは君の自由だ」「彼女は七ヶ国語を自由に話す」。英訳ではフリーもリベラルも一切つかいません。” という文章を目にした。
 このコラムニストには失礼だが、「小冊紙・・・」は Free Paper で充分だし、「行くか・・・」は「意思次第」、「彼女・・・」は「自由自在」を「自由」と置き換えて使っているに過ぎない。 それを英語で云々とは少々的を外し過ぎる。
 そんなチャチャはいいとして、それに続き 
“英語で言う自由、すなわちフリーダムとかリバティーは、束縛から解放された、いわば生きる権利を勝ち取る意味合いが強いのです。” と書かれている。 ちょっとまってくれ、日本ではそういう意味合いではないのか? とすれば、それこそが問題ではないのだろうか?
 確かに日本の民主主義は戦後アメリカから与えられたモノかもしれない。 だがそれ以前の日本にもそれに命を賭けた人間も居たのだ。 自由とても同じだ。 ところが今の日本社会は、どうせタダでもらったモノぐらいにしか考えていない。 だから政治家が脅すと簡単に手放しかねない危うさを感じてしまうのだ。
 ここで紹介した辻潤は、彼の時代ではある意味一番自由な精神を持っていたからこそ、その時代に埋没し朽ち果てた男とも思える。 もし辻が10人居てもナニも変わらなかったろうが、居なければ多分もっと不健全な時代であったろう、なぜかそう思わせる。


by seven 2008/06/21