信仰とは 

 ところでキリスト教徒にとっての信仰とはナニか。 それは 「イエスはメシア(キリスト)である」 と信じることである。 三共観福音書には 「ペテロ信仰を言い表す」 という同じトピックが少しづつ違う文章で紹介されている。 読み比べてみよう。
新約聖書 福音書(新約聖書翻訳委員会訳・岩波書店)より抜粋
マタイによる福音書(16.13-20) マルコによる福音書(8.27-30) ルカによる福音書(9.18-20)
 13. そしてイエスは、カイサリア・フィリピ地帯にやって来ると、その弟子たちにたずねて言った、「人々は、人の子を誰だと言っているのか」。  27. さて、イエスと弟子たちとは、カイサリア・フィリッポ近郊の村々に行った。 そしてその道すがら、彼はその弟子たちにたずねて彼らに行った、「人々は私を誰だと言っているのか」。  18. さて、彼が一人で祈っている際、弟子たちは彼と共にいた。 そして彼は彼らにたずねて言った、「群衆は私を誰だと言っているのか」。
 14. そこで彼らは言った、「あるものたちは洗礼者ヨハネ、しかしまたほかの者たちはエレミヤあるいはかつての大預言者の一人だと言っています」。  28. そこで彼らは彼に言った、「洗礼者ヨハネ、またほかの者たちはかつての大預言者の一人だと言っています」。  19. そこで彼らは答えて言った、「洗礼者ヨハネ、しかしほかの者たちはエリヤ、しかしまたほかの者たちは、いにしえの預言者たちのある者が甦ったと言っています」。
 15. 彼は彼らに言う、 「しかしあなたたちは、私を誰だと言うのか」。
16. するとシモン・ペトロが答えて言った、「あなたこそキリスト、活ける神の子です」。
 29. すると彼は彼らにたずねた、「しかしあなたたちは、私を誰だと言うのか」。ペテロが答えて彼に言う、「あなたこそキリストです」。  20. そこで彼は彼らに言った、「しかしあなたたちは、私を誰だと言うのか」。 そこでペトロは答えて言った、「神のキリストです」。
 17. そこでイエスは答えて彼に言った、「幸いだあなたは、シモン・バルヨナよ。 そのことをあなたに啓示したのは肉や血ではなく、天におれれる私の父だからである。
 18. この私もまた、あなたに言う、あなたこそペトロである。 そしてこの岩の上に、私は自分の教会を建てよう。 そして黄泉の門も、これに勝ることはないであろう。
 19. 私はあなたに天の王国の鍵を与えよう。 そしてあなたが地上で結ぶものは天上でも結ばれたものとなるであろう。 またあなたが地上で解くものは天上でも解かれたものとなるであろう」。


20. そのあと彼は、自分がキリストであることを誰にも話さないように、弟子たちに命令した。 30. すると彼は自分のことをだれにも言わないように、彼らを叱りつけた。  21. 彼はしかし、彼らを叱りつけながら、誰にもこのことを言うなと指図した。
 各福音書の著者の報告はその場所からして、微妙に異なっている。 マタイとマルコはフィリポ・カイサリア地方としているのに対し、ルカは場所を特定せず、祈りの時としている。 またマタイは地方だけを報告しているが、マルコはその地方の村々を旅している間としている。
 続いてイエスの尋ねに弟子たちが答えるところではマタイだけがエレミヤを出している点が異なる。
 弟子たちの見解をただしたイエスに対してペテロが「・・・メシア・・・」と答えているところでは(多少の言いまわし以外は)殆ど一致・・・つまりこれがこのトピックの主要部分にちがいない。
 次にマタイだけがシモン・バルヨナをペテロと呼ぶ由来、そしてイエスがペテロを自らの後継者として指名している場面を報告しているが、マルコとルカにはない。
 最後に三福音書はともに「イエス=メシア」である事を秘密にする事をイエスが命じている。 ナゼだろう。 この時点では「まだ贖罪は成されていない」という著者たちの意図が感じられないだろうか。

トマスによる福音書(13)
Q資料・トマス福井書/日本基督教団出版局
 ところで同じようなトピックが聖書には含まれない書籍、すなわち「トマスによる福音書」にある。 ところがここでは上記の三共観福音書とはまったく違った内容が報告されている。
 先ずイエスが弟子たちに見解を求め、それにペテロ、マタイ、トマスの三人が答えたことになっている。
 そしてマタイが報告したペテロへの後継指名にかわり、トマスへの特別の教え、すなわち「三つの言葉」の伝授の記事がある。
 しかも次に続くのは他の弟子たちがその内容を質すのに対して、トマスが「その器にあらず」と拒否する場面だ。 立場てきにはトマスだけがその「三つの言葉」の伝授にふさわしい弟子であるということになる。

 さてどういう事だろうか。 どうもこちらではペテロとトマスの立場が完全に逆転しているようだ。
 ペテロは間接的に「イエス=メシア」であることを述べているが、トマスの「不可侵」な存在という主張の前にあっさりと退けらる。 勿論「三つの言葉」にメシアが含まれている可能性はあるだろう。 だが、それでもあと二つはナゾのままだ。
 つまり「イエス=メシア」というテーゼだけを信仰とはしていなかった教団が存在したことを、この福音書は証言しているに違いない。

 イエスが彼らの弟子たちに言った、「私をどのような者であるかを私に言ってみよ」。
 シモン・ペテロが彼に言った、「あなたは義なる御使いのようです」。
 マタイが彼に言った、「あなたは賢い哲学者のようです」。
 トマスが彼に言った、「先生、私の口は、あなたがどのような方でいらっしゃるかをまったく言うことができません」。
 イエスが言った、「私はあなたの先生ではない。 私が番をしてきたふつふつとわく泉にあなたが酔ってしまっているのは、あなたが飲んだからである」。
 それから、彼は彼を連れていって退き、そして三つの言葉を彼に話した。
 トマスが彼の仲間たちのところに戻った時、彼らは彼に質問した、「イエスがあなたに何を語られたのか」。
 トマスが彼らに言った、「もし、彼が私に語られた言葉の一つを私があなたがたに言うならば、あなたがたは石を拾い上げて、私に投げつけるであろうし、また、火がそれらの石から発生してあなたがた焼き尽くすであろう」。

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