四福音書 

 新約聖書にあるイエスの物語は四福音書、すなわちマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書に掲載されている。 素朴な疑問は何故キリスト教会はイエスについての異なる(しかもそれぞれにおいて矛盾している)4つの物語を正典に含める必要があったのであろうか。 最初から一つの福音書で充分ではなかったのか。
 実は福音書を一つしか認めない宗派は存在した。 しかしそれは二世紀前半の最初の異端派マルキオン派においてである。 しかもそれまで正統派教会は正典の必要性を感じていなかったらしい。 つまり正統派教会が四福音書を正典として認めたのは、マルキオン派への対抗上であったと推定されている。

 ではその時点で福音書はその四つだけだったのだろうか。 キリスト教がローマ国教になる以前は、より多くのキリスト教分派が存在した事が知られている。 そこにはたとえばイエスの語録集としての「トマスの福音書」のように、幾多の異なったイエス文献があったようだ。 しかし正統派キリスト教会はそれを四つに限定し、そして残りの殆どを歴史の闇の中に埋没させたのである。

 だが何故その四つが選択されたのだろうか。 それには各四福音書の成り立ちを考えてみる必要がありそうだ。

マタイによる福音書 マルコによる福音書 ルカによる福音書 ヨハネによる福音書
AD70-90 AD70年代 AD70-90 AD70-90
マルコとQ資料を元にする ペテロの知識を元にマルコが書き記したとされるが、その確証はない マルコとQ資料を元にする 元になった資料は不明
著者はシリア(アンティオキア?)のギリシャ語を第 一言語とするユダヤ人キリスト教徒 著者はパレスチナ出身のギリシャ語が上手ではないユダヤ人キリスト教徒(マルコ本人?) 著者はパレスチナの事情を知らないギリシャ語を第一言語とするヘレニズム系都市のギリシャ系文化人(ルカ本人?)使徒行伝の著者と同一人物、または同派。 著者は不明。 使徒(ゼベダイの子)ヨハネの名で呼ばれるが、その本人ではない。
三共観福音書
 上記一覧の様にその成立時期の殆どが AD70-90 年の間、つまりイエスの処刑年(推定AD30)から少なくとも40年以上後に成立したと推定されている。
 その理由は、三共観福音書に共通の(ユダヤ人には決してあってはならない)「神殿崩壊預言(エルサレムが破壊されるという預言)」に基づいている。 すなわち、実際にユダヤ戦争でローマにより破壊された AD70年より以前に、熱烈なユダヤ民族主義の吹き荒れた中で、そのような記述をする事は不可能であったろうと思われるからだ。
 また他の理由として、しばしば福音書の中でイエスとパリサイ派との論争が言及されている点である。 ヨセフスの記述に従えばエルサレム崩壊以前のユダヤ教は大きくサドカイ、パリサイ、エッセネの3派に分かれていた。 とすればイエスの論争の相手は神殿の祭祀階級と考えられるサドカイ派であってもおかしくはないのだが、その記述はない。 またユダヤ戦争以後も存続したのはパリサイ派だけである。 つまり福音書はキリスト教創成期の最大のライバルであったパリサイ派批判を繰り返すのだが、それが本当にライバルになりえたのはエルサレム崩壊以降である。
 ではなぜイエスの死後40年以上も福音書が書かれる事はなかったのだろうか? 書き記されたモノがまったくなかったワケではない。 パウロ書簡内で実際にパウロ自身の作と思われる4書簡は AD49-55 年頃と推定されている。 (これらの書簡には福音書についての言及は一切ない)
 またパウロは(使徒行伝によれば)度々旅先から、その宣教方針の嫌疑の為にエルサレム教会(主の兄弟/義人ヤコブ)に呼び出されている。 つまりパウロの時代には未だイエスの直弟子が存命していたのだ。 とすれば未だイエスの事を書き記す必要は(彼らには)ない。 
 使徒的教父のひとりパビアス(Papias)が、”長老ヨハネという人物が「彼が記憶したことすべて、すなわち、主の語り、為し給うたことを厳密に書き記した。 もっとも順序だてて書いているわけではない」と語った”と証言している。 つまり当時のキリスト教会の長老達はこの福音書よりも自分の記憶の方が確かだと言いたかったのだろう。
 ちなみに義人ヤコブはイエスの近親者であったらしく、ゼベダイの子ヤコブとは別人。 AD62 に大祭司により殺害された記事はヨセフスにも記述されている。 つまり当時のユダヤ側でも認知されていた人物である。
 また邪推すれば、その様な書物は彼らの権威(存在意義)を失墜させるおそれもあっただろう。 実際に4福音書の中では、度々判りの悪い弟子として描かれている。 誰が一番の弟子であるかをイエスに問うて、唖然とされていたりする。 そんな不都合な事をあえて書き記すだろうか?
 つまりマタイ/ヨハネについては、彼らの死後、その権威を基にした教会が記述した福音書ではないかと推定されるワケだ。 (当然マルコとルカについても同様の疑念があるが、本人だという説も強い。 せめてこの二人については上記の様な書きたくない理由がない。 彼らが聖書に登場するのは使徒行伝以降である)

 ところで単純に考えれば四福音書は書かれた年代順に掲載されていると思いやすいが、どうもそうではないらしい。

 なぜならばマタイ、マルコ、ルカの三福音書は多くの類似点がある事が古くから指摘されており、そこからこの三福音書を共観福音書と呼んでいるわけだが・・・ではなぜその様な類似点が存在するかが問題となる。 実際には、マタイとルカはマルコ以外にも(イエスの言行録において)平行する(同じ内容だが趣旨が違う)節が存在するが、マルコにはそれが無い。 つまりマタイとルカはマルコを参考にして記述したという仮説が立てられる。
 またマタイとルカの平行するイエスの言行録は、しかしお互いにかなり違った場面に収録されている。 つまりここからマタイとルカはお互いの福音書を知らない(または読まない)で、未発見のイエス言行録(Q資料と呼ばれる)を参照したという仮説が立てられる。

 つまりはマルコが最初に福音書を記述し、マタイとルカはそのマルコの物語の筋に従い、別々にQ資料のイエスの言葉を織り込んで記述したと考えられるワケだ。 この仮説に従えば、福音書の成立順は(せめて三福音書については)聖書の順 マタイ→マルコ→ルカ ではなく マルコ→マタイ/ルカ となる。

 「マタイ」と「ルカ」はお互いの福音書を知らなかったらしい。 例えばこの二福音書それぞれに記述されているイエスの家系図(マタイ1:2-17. ルカ3:23-38)を比べると、一致するのはアブラハムからダビデまでで、それ以降をマタイがソロモンから、ルカはナタンから引いている。 ダビデはユダヤ人にとっては最大の偉人であり、マタイ、ルカともにイエスをその血統であることを主張しているからには、お互いに違っていることは致命的なミスであるハズだ。
 ちなみにマルコはルカの書いた使徒行伝でパウロの一回目の海外宣教に同行しながら途中で逃げ帰った人物として記されている(使徒行伝は、後半の殆どをパウロの記事に充てていることからも、パウロ側の著者と考えるのが妥当で、とすれば途中で逃げ帰った云々もパウロ側からの非難として読むべきである)。 そのせいでもあるまいが、マルコの福音書はいたって評判が悪かったらしく、マタイとルカの福音書はそれを書き改めたものと推定されている。
 何故マルコによる福音書が評判がわるかったかについて、(1)マルコのギリシャ語はあまり上手ではなかった。(2)マルコの時代はまだ口伝による伝承が有力であり、マルコの書籍はその権威を落とすものと考えられた。 などの原因が考えられる。
 逆にマタイがシリア(アンティオキア)で書かれたとするなら、何故こんな退屈で権威的な文書が新約聖書の一番最初に掲載されたのかが納得できる。 なにしろ当時のアンティオキアはユダヤ外での最大のキリスト教会である。 またそこに住むユダヤ人は通常にギリシャ語を話していたらしい。 つまり当時のライバルであるユダヤ教に対して充分な論理武装が可能であり、且つ当時のキリスト教徒の殆どが理解できる言語に堪能であったわけだ。
 ガリラヤ人であるイエスが日常話した言語はアラム語であったと思われる。 ところが新約聖書は全てギリシャ語で書かれている。 これはキリスト教という宗教の性格を強く表していると思われる。
 またルカを、パウロがフィレモン(ピレモンへの手紙24節で協力者と呼んでいるルカであるとするなら、後にマルキオン派が福音書でこのルカのみを正典に含めたのが納得しやすい。 なにしろマルキオン派は純粋にパウロ的であろうとした為に異端とされたのである。
 そしてもしルカがマタイと同時代に(おそらくマタイを知らずに)マルコを書き換えたとすると、当然マタイとは地理的にも離れていたハズである。 上記のフィレモンはトルコ南西部のコロサイの教会を設立した人物で、そのフィレモンがルカを知っていることから、ルカはその方面で活躍した人物であることがわかる。 すなわち彼はユダヤの事情を良く知らないギリシャ語を第一言語とするヘレニズム/ギリシャ系文化人であったと思われる。
 マルキオンは黒海北岸のポントス生まれとされる。 またマルキオンはおそらくマタイやヨハネによる福音書を知らなかったという説がある。
 さてヨハネについてはまさに神秘的なベールに覆われている。 これはグノーシス派にも読まれていた福音書でもある。 実際これが聖書に含まれている事を非難する正統派キリスト教徒も多く存在した。 またマタイ、ルカ、マルコの三共観福音書に対して、ヨハネはそれらと平行する節が殆ど無いか、または物語上の配置がまったく違っていたりする。
 つまりヨハネは正統派からは少し離れた(あるいは多少グノーシス的要素をもった)教会の文章であるとも思われる。 そしてこれが後の正典化の時点で含まれたのは、まさにその描き出すイエス像の魅力によるに違いない。
 ヨハネは使徒の中で唯一殉教せずに死んだ人物だとも言われる。
 このように四福音書は、それぞれに異なった場所で、異なった教会の教徒を対象に書かれた文章である。 すなわち初期のキリスト教は後の時代ほどには統一された教義を持たず、色々な宗派の乱立する状態であったと推定できる。 正統派教会が公に他の宗派を排斥できたのは四世紀コンスタンチヌス帝のキリスト教公認後までまたなければいけない。 そして正典化はマルキオン派以降、すなわち二世紀後半から150年ほどもかけて行われたという。
 つまりこれらの文書は現在のキリスト教会が提唱するように、最初からお互いが補完しあうように記述されたものではなく、当時の正統派が自分達の主張に沿う最大公約の文書を集めたと考えるのが正しいだろう。 そしてその論理的ほころびが逆説的に初期キリスト教会の多種多様な側面を浮かび上がらせてくれるのである。

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