新約聖書の原典はすべてギリシャ語で書かれている。 つまりヘブライ語でも、またイエスの日常語であったと思われるアラム語でもなく、最初からギリシャ語(注1)で書かれた。 しかもキリスト教とはヘブライ語のメシアではなく、ギリシャ語のクリストスを語源としている。 つまりメシア教ではなくキリスト教である。 どういうことだろう。 つまりこれは初期のキリスト教がイエスの弟子達ではなく、ディアスポラを中心とするヘレニストの宗教であった証拠ではないだろうか。 |
(注1) 当時、ローマ帝国の東側半分では、支配言語はラテン語ではなくギリシャ語であった。 またヨセフスの「ユダヤ戦記」は当初「父祖の言語(アラム語)」で書き、広く読んでもらう為に本人が「ギリシャ語」で書き改ている。 つまり知識人にとってギリシャ語は必須の教養であった。 ところでヨセフスは「ユダヤ人は多くの言葉を話せる事をあまり評価しない」と述べているが、それは「奴隷でさえ少し勉強すれば出来る事」で、逆に彼らにとっては話せて当然なのだと自慢している。 確かに当時のユダヤ人は律法をヘブライ語で読み、日常はアラム語を話し、外とはギリシャ語で政治的取引や商売をしていた。 これは当時のヘレニズム社会(現代の中東)では普通のことであったと思われる。 |
ディアスポラとは散在するユダヤ人の意味で、つまりイスラエル以外に住むユダヤ人は全てディアスポラである。 普通日本人はこれをAD70年のエルサレム崩壊後に世界中に離散したユダヤ人の事であると考えやすいが、実はそうではない。 より古い時代からローマ帝国各地の大都市にユダヤ人は自分達のコミュニティを作って住んでいた(注2)。 丁度横浜の中華街のように、現在世界の大都市の殆どすべてにチャイナ・タウンが存在するのと似ている。 |
またヘレニストとはアレキサンダー大王以降、その帝国内の各地に作られたヘレニズム的文化都市の住人を示す。 彼らはギリシャ語を日常語として、または最低でもそれで会話できる人々であった。 つまり当時のローマにおけるギリシャ語は、現代なら国際語としての英語に近い。 そしてヘレニストとはそのギリシャ語で会話できる都会人であり、それはギリシャ人とは限らない多くの人種が含まれていた。 |
(注2) ローマではBC59年にユダヤ人がエルサレムの神殿に送金しようとした金を政治家ルキウス・ウァレリウス・フラックスが没収するという事件があった。 紀元前後のユダヤ人哲学者フィロンはローマのユダヤ人は新たに移り住んできた開放奴隷だったと記している。 つまりローマでは最低でもその頃にはユダヤ人のコミュニティが存在したのは間違いない。 またヨセフスもユダヤ戦争前にはローマ帝国内の各地の中心都市にユダヤ人コミュニティが存在したことを報告している。 |
ところでユダヤ人とはどの様な人種なのであろうか。 ユダヤ的風貌を厳密に定義して隔離しようとしたヒットラーが一番そのステロタイプ的ユダヤ風貌であったのは歴史的なブラックジョークだが、実際に現代イスラエルのアシュケナジー(東欧系ユダヤ人)は人種的に近いハズのパレスチナ人より、ヨーロッパ人に風貌が近い。 そこで「アシュケナジーはハザール(カザール)人(注3)の後裔だ」という議論すらある。 |
(注3) ハザール(カザール:Khazar)は7世紀頃に南ロシア平原に成立した国。 当時勢力を広げつつあったイスラム教、逆に落日近いビザンチン帝国の勢力のハザマで、10世紀頃に国教としてユダヤ教に改宗したとされる。 また現在のアシュケナジーはハザール人起源とする説は「ユダヤ人とは誰か/第13支族カザール王国の謎(アーサーケストラー著)」によって提起されたが、これはテルアビブ大学のユダヤ史の教授A.N.ポリアックが提唱した学説に依拠している。 因みにこの本の和訳者(宇野 正美)から、これをトンデモ本とする風潮があるようだが、本の内容はいたってまともだ。 |
またローマ時代のディアスポラも人種的には簡単に説明できない。 当時ユダヤ教徒は盛んに布教活動を行っていた(注4)。 例えばヨセフスはローマにおいてユダヤ教に改宗した人物として貴族の夫人フラウィアを挙げている。 つまり割礼を必要としない婦人、そして次にその亭主という具合に改宗が進められたらしい。 とすればそれらの改宗者もシナゴークに集っていたのだから、彼らをディアスポラに含めたとしてもおかしくはない。 |
(注4) マタイによる福音書(23.15)はAD1世紀頃のユダヤ教の布教活動を証言している。 「15. 律法学たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。 改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。」 一説にはこの布教活動でローマ全体の10分の1(エジプトでは8分の1)の人々がユダヤ教に改宗したという。 勿論この比率は信じがたいが、割礼の儀式はかなり抵抗があっただろうから、その1歩手前、つまり割礼を受けないユダヤ教徒予備軍もこの中に含まれていたのかもしれない。 当然その幾分かは割礼を必要としないもうひとつのユダヤ人の宗教、つまりキリスト教徒となったことは想像できる。 |
勿論これをいいだすと現代のユダヤ人は太古の時代からの自分の家系図を持ち出してきて反論する。 しかし家系図のような個人的歴史ほど簡単に偽造できるものはない。 いい例がマタイの福音書にあるイエスの家系図である。 また、たとえそれが本物であったとしても、その家系図を金銭で買った人達もいただろう。 なにしろAD一世紀頃のローマ帝国内における主要な都市では、大抵ディアスポラが二番/三番目の人口を占めていたのだ。 それが全てユダヤ/パレスチナの出身のディアスポラであるとは信じがたい。(注5) |
(注5) 歴史はもうひとつの可能性を提示する。 旧約聖書にはイスラエルの十二支族の名前が記されている。 しかしダビデやソロモンの黄金時代の後、BC931年南北に王朝が分裂。 そしてその十支族により構成された北朝が先に滅亡し、残りのニ支族の南朝は新バビロニア帝国によって滅亡、そしてバビロンの捕囚。 その後ペルシアの大王キュロス2世の時代に、捕囚されていたニ支族は故郷パレスティナへの帰還を許される。 ところが北朝に属した十支族はその後歴史上からなぜか消えうせてしまうのだ。 しかし聖書にはサマリア人という人々が登場する。 「善きサマリア人」とは、つまりサマリア人でさえ善い人間がいるという譬えと思えるが、つまりそれほどにユダヤ人にとっては嫌うべき存在であった。 何故それほどに嫌ったのだろう。 ユダヤ人側からの説明ではサマリア人とは北朝崩壊後に北部の十支族が追放され、その後に住み着いた人々となっている。 ところがサマリア人側では逆に自分達こそは正統なユダヤであると主張しゲリジム山に神殿を築いてその中心としていたらしい。 つまりお互いに相手を偽として紀元前450年頃には争いが起こり、その後すっかり犬猿の仲となっていたのだ。(ちなみにサマリア人は現在でもパレスティナに200人程存在するらしい) どうも実情はバビロニアから帰ったニ支族が元々の場所に残っていた十支族を自分達の同属とは認めなかっただけではないのだろうか。 彼らニ支族は当時の最先端の文化都市バビロンで自分達の文化を守り通した。 逆に考えればそれまでパレスチナの田舎宗教であったユダヤ教を、より洗練された宗教にする事に成功したと考えられる。 とすればバビロンから戻ったニ支族が、元々のイスラエルの宗教になじまなかったとしてもおかしくはない。 つまりその時点でユダヤ教は最先端の宗教であり、そしてユダヤ人はその血縁ではなく、その宗教感により同属を区別したのだ。 |
しかも初期ローマ帝国内で、ユダヤ人はそれなりに人気のある人種であったようだ。 例えばヨセフスはその著書の中で何度も繰り返しユダヤ人が時のローマ皇帝から特別な配慮を得ていた事を主張している(注6)。 またアグリッパスはクラディオス帝の宮廷に取り入り後にユダヤ王にまで出世するが、それはユダヤ人である彼がローマ帝国の宮廷内に比較的自由に出入りできたことを示している。 つまりキリスト教が支配した中世とは違い、当時のユダヤ人は比較的に優遇された種族であった。 とすればそれより低く扱われた(例えば開放奴隷のような)人々にとってユダヤ教に改宗するというのは魅力ある選択であっただろう。 |
(注6) ローマがユダヤ人に与えた特権には、集会を開く権利、兵役の免除、第7の日(安息日)に出廷する義務の免除(出廷しなくてもよい)、エルサレムの神殿の為に聖なる金を集める権利、などが知られている。 |
ところでパウロもやはりディアスポラの一人である。 しかも生まれながらにローマ市民権を持つ者でもあった。 ローマ市民権とは現代のマスターのプラチナ・カードを持つよりも価値がある。 なにしろ彼を捕らえたローマ軍の隊長でさえ、その扱いを躊躇させる程の効力があったのだ。 |
またパウロの最初の宣教の旅に同行したバルナバはキプロスの地主でもある。 それがパウロと共に長い旅に出かけれるという事は、彼が不在地主であった事を意味する。 古代においてその土地を長期間留守に出来るという事は、そこを守る使用人が居たことを示している。 つまりそれ程に経済的に裕福であったワケだ。 |
他にもパウロの2回目の宣教において、コリントスでパウロを助けたアキュラとプリスキラの夫婦は、クラウディウス帝によりローマから追放(注7)された人々であったが、後にパウロと一緒にエフェソスに行き、そこに居ついている。 つまりローマ、ギリシャ、小アシアに生活拠点を持てる人達であったわけだ。 |
(注7) スエトニウスのローマ皇帝列伝の中でクラディウス伝25章に「煽動者クレストスの故に執拗に騒乱を起こしていたユダヤ人を、クラディウスはローマから追放した」と記されている。 アキュラとプリスキラはこの時追放された人達のようである。 またクレストスとはキリストのことで、これはパウロがコリントスに訪れる前からすでにローマにキリスト教徒が存在していた事を示している。 |