ルカ文書の著者問題 

 今日、一般に新約の著者が、その文書に名を残す本人とする立場は、その権威を守るという意味において護教的/保守的と考えられている。 例えばマタイやヨハネの福音書が十二使徒の彼らの作であるという神学者は殆ど居ない。 しかしルカ福音書の著作者問題は少し違う様相を呈しているようだ。 (ちなみにルカについては福音書とそれに続く使徒行伝のどちらも同一人物の作とされるので、これはルカ文書の著作者問題という事になる) 確かに現在の新約学の主流は、4福音書及び使徒行伝の全てを本人ではなく「無名」の著者としている。 しかしルカについては何故か(一番、反護教的と目される)田川建三が異を唱えている。 どういう事であろうか?
 ところで現代に生きる我々は本の表紙にそのタイトルが載っている事を当然と考える。 しかし新約の書かれた古代においては一般に表題がついていない文書の方が普通であったらしい。 つまりこのルカ文書も最初からルカ福音書、または使徒行伝と表題が書かれていたわけではなく、ある時期そう呼ばれるようになり、それが(分類上の必要から?)表題となったと考えられる。 これは他の三福音書も同様で、新約聖書翻訳委員会訳の福音書の解説から引用すると
【マルコ】 紀元後二世紀中葉近くの、小アジアはヒエラポリスの司教パピアスの伝えるところによると、マルコ福音書とは、ペトロの通訳のマルコがペトロの語ったことを忠実に記したものであるという。 その際、普通は使十二12、 十二25、十三5、十五37-40 のヨハネ・マルコが連想される。・・・
【マタイ】 ・・・この「マタイ」著者説を支えるのは、マルコ福音書の場合もあげた、二世紀中頃近くのヒエラポリスの司教パピアスである。 彼によれば、「マタイはヘブライ語で(主)のロギア〔「言葉」「発言」「詞」の複数系〕を集大成した」という。・・・
【ルカ】 紀元二世紀末の、いわゆる「ムラトリ正典目録」によれば、この福音書の著者は、「医者」(コロ四14)であったルカである。 また、紀元後一八〇年代の教父エイレナイオスも、パウロの「同行者」(フィレ24)ルカがパウロの福音を書にしたためたという(エウセビオス『教会史』五・八・3に引用)。・・・
【ヨハネ】 ・・・二世紀末に南ガリアで活躍したエイレナイオスが共感福音書(マタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書)について書いた後、「その後、ヨハネすなわ主の弟子で、またその懐近くで食卓についたあの人もアシアのエフェソにいた時、福音書を公にした」(『異端反駁』第III巻第一章1)と記しているからである。・・・
 当然これらの解説も上記の名前の由来を書き記した後に、しかしそれが現在では受け入れられていない事、そしてその理由を書き記している。
 その前にルカとはどういった人物であるかを特定してみよう。 実際に聖書にルカの名前が書かれているのはパウロ名の書簡(コロサイ4-14. フィレモン24. テモテ(II)4-11.)だけであり、ルカ文書自体には著者名の記述がない。 なのに何故これがルカ文書と呼ばれるのであろうか。 まずは実際にルカの名前が記述されているパウロ名の書簡を(関連する人々の部分と共に)引用してみよう。
フィレモンへの手紙 コロサイ人への手紙 テモテへの第二の手紙
キリスト・イエスにある私の囚人仲間であるエパフラスが、あなたに挨拶を送る。 私の同行者であるマルコ、アリスタルコス、デマス、ルカも同様である。 (23-24)  私の捕虜仲間アリスタルコスが、そしてバルナバの従兄弟マルコがあなたがたによろしくと言っている。 このマルコについてはいくつかの要請をあなたがたは受け取ったことと思う。 彼があなたがたのところに来たら、彼を迎え入れるように。 (4-10)
・・・・(中略)・・・
愛する医者ルカとデマスがあなたがたによろしくと言っている。
(4-14)
 デマスはこの今の世を愛したがために、私を見捨ててテサロニケに行ってしまったし、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行ってしまった。
ルカ唯一人が私と共にいる。 マルコを一緒に連れて来なさい。 彼は私の奉仕の務めに有用だから。 (I4-10.11)
 三書簡の中では唯一パウロ本人の手紙とされ、またパウロ書簡の中でも唯一個人宛て、つまり同行者であったフィレモンへの短い個人的依頼の内容である。 時期的にはエルサレムでの逮捕後、ローマへ送られる間、場所はエフェソスが有力とされる。  おそらく擬似パウロ書簡。 コロサイ教会内部の者がパウロ死後すぐに教会を統率する為に書いたとする説が有力だ。  パウロの最晩年、つまり処刑直前にローマで書かれたとされるが、内容的には、おそらくこれも擬似パウロ書簡。 終末観の希薄さ、および教会秩序の強調などから100年前後に成立したとする説が有力だ。
ちなみに三書簡ともにマルコの名前が出てくるが、福音書の著者とされる(ヨハネとも呼ばれる)マルコは(使徒行伝に従えば)一回目の宣教旅行中に勝手にひとりで帰ってしまった事から、二回目の宣教旅行時にはパウロから同行を拒否されている。 またマルコが福音書の著者である/なしに係わらず、パウロとの方向性の違いは余りに大きすぎる。 なのでエルサレムで逮捕後に再度このマルコがパウロと和解して同行していたとはちょっと信じがたい。 つまり同名の違うマルコが晩年のパウロに同行しており、それをコロサイの著者が勘違いして「バルナバの従兄弟の」と記述したものではないだろうか。
 パウロ本人が書いたとされるフィレモンに名前が出ている事からも、同行者にルカという人物が居たことは確かだろう。 また他二書簡が擬似書簡(偽書)であるとしても、逆に考えればルカという同行者が広く名前が知られていた証拠でもある。 しかしだからといって共にローマ高官と思われるティファロス閣下に捧げてと書かれている文書(前編が福音書、後編をイエスの処刑以降の使徒行伝)ルカが書いたとするのは何故であろうか?
 先ず後編、つまり使徒行伝の内容のパウロへの比重の大きさである。 ペトロでさえも時々顔を出すだけで、後半にいたっては殆どがパウロの宣教で埋め尽くされている。 まるで前編の主人公がイエスであれば後編はパウロである。 遅くとも西暦100年前後にこの文章が書かれたとすれば、当時キリスト教全体でそれほどにパウロが高く評価されていたとは思えないこと、いや時代的には律法からの自由を主張するパウロ派は未だ少数派であった事からも、これは注目すべき点である。 当時の教会の中心はアンティオキアで、そこはまたマタイの場所でもある。 つまりパウロは異端すれすれであったろう。 それでもなお重点を置くのは、確かに著者がパウロに近い側の人間であった事を裏付ける。
 また使徒行伝の「われら章句」の存在がある。 つまり殆どの部分が三人称、つまり「彼らは」と記述されているのにたいして、トロアスからフィリピ(16:10-17) フィリピからミレスト(20:6-15) ミレトスからエルサレム(21:1-18) カイサリアからローマ(27:1-28:16) の記述には「私たちは」と書き出される章句が存在する。 つまり著者はこの時期パウロと同行していた事を主張しているのだ。 (これについての荒井献の反論は後述)
 では同行者とは誰なのであろうか? 先ずバルナバとマルコは二回目以降はいないので違うだろう。 パウロ書簡によく登場するテモテとテトスはどうだろう。 もしテトスであるとすれば、彼はパウロの最初のエルサレムでの使徒会議にも同伴している。 つまり「われら章句」より以前からパウロと同行していたと思われる。 それにパウロ書簡で度々示されるテトスの功績を使徒行伝はまったく伝えていない。 同様なことはテモテにもいえる。 つまりこの二人であるならば、もっとそれぞれの功績が使徒行伝に書かれているハズだ。
 つまり消去法として残った著者がルカではなかったのだろうか。 たとえ擬似パウロ書簡(当時も偽書とされていたかは不明だが)とはいえテモテには「ルカ唯一人」がパウロの側に居たことになっている。 とすればこの著者がルカであると考えるのが一番妥当な選択であったのではないだろうか。
 さて、では何故現代の神学者は著者をルカではないと断定するのであろうか? ルカ文書(岩波書店)の使徒行伝ー解説から荒井献の説を引用してみよう。
 ・・・伝統的にはルカ福音書の場合と同様に、「医者」であり(コロ四14)、パウロの「同行者」(フィレ24)であったルカとみなされている。 しかし現在、これもルカ福音書の場合と同様に、この伝統的な著者=ルカ説を支持する学者はきわめて少ない。 その理由を使徒行伝に限って挙げれば、著者がパウロの「同行者」であったにしては、この書におけるパウロの言行とパウロ自身がその真正な手紙の中で主張している事柄との間に−もちろんパウロの行動の年代づけなどでは大筋において対応しているが−、本質的な点であまりにも差異が大きい。
 荒井はこの差異として要約すると次の4点を指摘している。 

(1) パウロの中心思想である「信仰義認論」がルカではまったく無視されている。
(2) エルサレム使徒会議における、エルサレム教会への経済的援助条項がなく、かわりに「使徒教令」が明記されている。
(3) パウロが度々行ったはずのエルサレム教会への献金を殆ど記述していない。
(4) パウロは手紙で度々異端をはげしく攻撃しているが、使徒行伝ではパウロの死後の異端の預言が書かれているだけだ。

どうも(1)以外は、それに続くパウロとエルサレムの長老会議との緊張がルカでは全く感じられないという点の説明的フリにも思われるが、続けて引用すると

 これらの相違点を総合してみると、使徒行伝のパウロは律法の遵守になんら疑いを抱いておらず、この点でエルサレム教会の指導者たち(ペトロや「主の兄弟」ヤコブ)と緊張関係がなく(ガラテヤ書二11-14におけるパウロによるペトロ批判を見よ!)、エルサレム教会が著しく理想化されている。 これらの特徴は、パウロの死後、自らを次第に環境世界(ユダヤ教の律法やローマ帝国の法)に統合していく異邦人キリスト教の特徴、とりわけその出目である「パウロの名によって書かれた手紙」の思想的特徴と対応している。 使徒行伝の著者はパウロの直接の「同行者」ではなく、パウロの死後その思想の継承者たろうとした異邦人キリスト者の一人であろうと想定される所以である。
 つまり著者はまったくパウロの思想を理解しておらず、それどころか初期カトリシズム路線からパウロを記述しており、その様な人物がパウロの同行者であったルカであるハズがない、という説明だ。
 また前述の「われら章句」の問題については、当時のヘレニズム文学、とりわけ航海に関する叙述にかなり同様な「われら」を使う例が多くみられることを指摘した上で
 ・・・しかも当時の歴史記述者には、記述の対象となる出来事とりわけ海上の出来事に想像力をもって自ら参入し、それを自らの体験として描写することにより、臨場感を読者に印象づける筆力が、記述者の資格として課される伝統があった。 実際、使徒行伝において「われら章句」はパウロの航海記事に関連して現れるのである。 要するに、「われら」は著者の文学的手法であって・・・
 と、あくまで著者の文学的手法でしかないと片付ける。 確かに彼ほどの権威者の書くことであれば、そうと納得するしかないが・・・しかし疑問として、なぜ「われら章句」がパウロの第二回伝道旅行以降にしか現れないのか、つまりバルナバとの第一回伝道旅行には現れないのか、その事に答えていない。 一回目は航海をしていないワケではない。 またその航海の記事が無いワケでもない。 例えば「・・・そこからキュプロス島に向けて船出した」(13:4) 「パウロとその一行は、パポスから船出して・・・」(13:13)「そこからアンティオキアに向って船出した」(14:26) なのに何故二回目以降に限り「われら」と書き出しているのだろうか。 
 では田川建三はなんと反論しているのであろうか? 彼は「マタイ福音書によせて・第五章」において、最初に近代の新約聖書学がドイツ・プロテスタントの神学者、つまりパウロを絶対とするルター派であり、えてして新約をパウロ寄りに解釈しがちである事を指摘した後、次の様に述べている。
 ・・・ルカがパウロと同じ「福音」を伝えようとしている、などという露骨な嘘は、さすがに今では通らなくなってきている。 とすると、逆に極端にぶれた方がやり易い。 使徒行伝の著者はパウロを知らない、だからこの著者はパウロのことを間違って伝えているのだ、だからこの著者はパウロの「弟子」ルカではありえない、と宣言する方がやり易い。 新約聖書の中で本当に正しい「福音」を語っているのはパウロだけで、あとはみないささか堕落したキリスト教だ、と切って捨てる方がやり易い。
 もっとも、使徒行伝の著者はパウロ思想を忠実に伝えていないから、パウロの弟子ルカではありえない、というのも奇妙な論理である。 そもそも新約聖書のどこにも、ルカはパウロの弟子だった、とは書いていない。 単に、パウロの伝道旅行の協力者の一人、というにすぎない。 確かにルカはずい分と多くパウロの世話をしてやっている。 しかし、協力してやったからとて、「弟子」呼ばわりされるわけにはいかない。 パウロの直接の協力者ならパウロの弟子であるはずだ、というのでは論理的にあまりに奇妙である。

(中略)

 確かに、現代のパウロ主義神学者が大事にかかえる「純粋なパウロ像」から見れば、使徒行伝の著者はそういうものを伝えてはいない。 しかし実際のところこの著者は、うまく俗流化したパウロ思想を実によく伝えているのだ。 パウロが固執してやまなかった一点、つまり自分は「異邦人への宣教者」である、という点を俗流化して強調するのが、この著者の描くパウロ像なのだから。 しかし現代の護教論者諸氏には、この俗流化が気に入らない。 だが、弟子が師匠の姿を描くのに俗流化するはずがない、などというわけにはいくまい。 ましてルカはパウロを直接知っていても、「弟子」ではない。

(中略)

 当時のキリスト教全体の流れは、まがうかたなくカトリシズムの形成へと向って流れていたから、ルカが当今の学者たちが「初期カトリシズム」と名づける傾向に何ほどか傾きつつあったのも当然のことである。 そしてこれもまた当今のパウロ主義神学者、つまりプロテスタント護教論者にとっては都合の悪いことである。 パウロの「弟子」にカトリシズムに傾斜されては困るのだ(もっとも、私に言わせれば、新約聖書の中ではっきりカトリシズムの方向に向っているのはまずパウロ自身である)。 従って、以上の都合の悪さを断ち切るためには、ルカ文書(ルカ福音書と使徒行伝)は「パウロの弟子ルカ」ではなく、パウロと無関係の、数世代後の、「初期カトリシズム」に毒された人物が書いたのだ、と宣言する必要にかられる。・・・・
 要はパウロを絶対とする現代のプロテスタント神学者のいう事は信じなさんなという事だろう。 だがこれがルカの文章であるという根拠は示していない。 ただルカではないという根拠はないといっているだけだ。 確かに田川のように(今という時点においては著者が誰であるかより)「ルカではない」と主張する風潮の問題点に視点を傾ける事の方が意味はあるだろう。 だがもしこれがもしパウロの同行者であったとしても、それがルカである証拠も(100年後のエイレナイオスを信じない限りは)存在しない。

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